年収交渉は「言えば少し上がる」ものではありません。提示額が動くのは、相手が出せる範囲の中で、こちらが数字で根拠を示せたときだけです。
裏を返せば、交渉で動く幅には最初から上限があります。まずそこを確かめます。
交渉で動く幅と、動かない幅
実務3〜5年/東京勤務/スキル中位という条件を固定して、企業タイプだけを変えるとこうなります。
| 企業タイプ | 推定レンジ | レンジの図 |
|---|---|---|
| メガベンチャー・外資 | 604〜709万円 | |
| 上場・大手 | 531〜624万円 | |
| 中小の受託・SIer | 459〜539万円 | |
| スタートアップ | 483〜567万円 | |
| SES | 411〜482万円 |
上端のメガベンチャー・外資と下端のSESで 210万円。この差は交渉では埋まりません。 事業の利益率と商流の深さという構造から来ているためです(企業タイプ別の年収相場)。
交渉が効くのは、応募先が持っている等級レンジの内側だけです。表の各行が幅を持っているとおり、同じ企業タイプでも下端と上端があり、そのどちらに置かれるかが交渉の対象になります。構造をまたぐ移動は交渉ではなく、応募先の選び方の問題です。
実際に上がっている人はどれくらいか
推定ではなく実績データがあります。dodaエージェント経由で2025年9月に転職が決定した人のうち、年収が増加したのは 60.4% でした。
| 指標 | 金額 |
|---|---|
| 全体の平均変動額 | 9.5万円 |
| 年収が増加した人の平均増加額 | 73.1万円 |
全体では小さく動き、上がった人だけを見ると大きく動いています。転職は平均して少し上がるイベントではなく、上がる人と上がらない人に割れるイベントです(転職で年収が上がる人と上がらない人の違い)。
交渉はこの分岐の最後のひと押しにあたります。分岐そのものを作るのは、動く前に構造を選べたかどうかです。
通る根拠4つ
| 根拠 | 何を示すか | 準備の仕方 |
|---|---|---|
| 他社からの提示額 | 市場が実際に払う額 | 選考の時期を揃え、提示を並べる |
| 条件を揃えた市場レンジ | 経験年数・企業タイプ・勤務地を合わせた水準 | 平均ではなく同条件の分布を使う |
| 職務範囲と等級の対応 | 求められる役割が社内の何等級か | 面接で担当範囲を具体的に確認する |
| 現年収の内訳 | 所定内の給与がいくらか | みなし残業と基本給を分けて把握する |
上から順に強く、下ほど補助的です。4つとも共通しているのは、相手が確認できる数字であることです。
1つ目の他社提示が最も強いのは、金額に裏づけがあるからです。2つ目の市場レンジは、平均年収を持ち出すと効きません。ITエンジニア全体の平均 469万円 には未経験も10年以上も含まれており、自分の条件を説明する数字にならないためです。
同じ実務3〜5年・東京・上場企業の枠内でも、スキルの水準だけでこれだけ動きます。
- スキル下位(スコア30):491〜576万円
- スキル上位(スコア85):602〜707万円
4つ目の内訳は見落とされがちです。現年収にみなし残業が含まれていると、提示額が上回っていても所定内の給与では下がることがあります。計算の仕方はみなし残業を実質時給に換算する方法で扱っています。
いつ出すか
段階によって、出すべきものが変わります。
- 応募書類の希望年収欄 — 単一の金額ではなくレンジで書きます。ここで高すぎる額を単発で置くと、書類の段階で外れることがあります
- 一次〜最終面接 — 金額の話はしません。この場で確かめるのは、担当する範囲と、それが社内の何等級に当たるかです
- 内定の提示後 — ここが唯一の交渉の場です。評価が固まった後なので、根拠が届く余地があります
どう出すか
型は3つの要素でできています。現状の数字、比較対象の数字、合意する意思です。
現職は所定内で◯◯万円、みなし残業を含めて◯◯万円です。他社から◯◯万円の提示をいただいており、今回の役割は御社の◯等級の内容だと理解しています。◯◯万円で合意できれば、他社はお断りして入社したいと考えています。
最後の一文が要点です。上げれば決まる、と伝わらない要求は検討されません。 逆に、金額以外の条件(等級、入社時期、裁量の範囲)を含めて合意点を示せると、金額が動かない場合でも別の形で調整されることがあります。
回数は一度と決めておきます。提示のたびに条件を追加する進め方は、入社後の関係にも残ります。
社内の昇給交渉は別のゲーム
在職中の交渉は、転職時とは仕組みが違います。原資が評価サイクルと予算で決まっているため、期の途中に個別で動かせる余地は小さくなります。
社内で効くのは、次の等級の要件を先に確認し、その要件を満たした実績を評価時期の前に揃えておくことです。要件が明文化されていない場合は、その事実自体が、外を見る材料になります。
交渉前に根拠を組み立てる
希望額を決める前に、現年収、市場のレンジ、提示された役割、他社の選考状況を一枚に整理します。ここで大切なのは、自分の生活上必要な金額と、会社が条件を動かす理由を分けることです。前者は応募先を選ぶ基準ですが、後者がなければ交渉材料にはなりません。
市場レンジを使う場合は、経験年数だけでなく、企業タイプ、勤務地、役割を揃えます。広い平均年収を持ち出すより、今回の職務に近い条件でどの範囲にいるかを示すほうが説得力があります。そのうえで、自分が範囲の上側に当たる理由を、担当した判断や成果で説明します。
希望額には一点だけでなく、受け入れられる下限と、満たされない場合の選択を持ちます。金額が動かなければ辞退するのか、入社後の早期評価や一時金なら受け入れるのかを先に決めておくと、その場の雰囲気で判断が変わりません。交渉は勝ち負けではなく、条件が互いの期待に合うかを確かめる工程です。
会社側の回答ごとに対応する
会社が「給与テーブル上、これ以上は難しい」と答えたら、まず提示された等級と上限を確認します。本当に制度上の上限なら、同じ等級のまま総額だけを上げる余地は小さいでしょう。その場合は、役割を一段上として評価できる材料があるか、入社後に次の等級を判定する時期を早められるかを相談します。
「社内の公平性がある」という回答も、単なる拒否とは限りません。既存社員との整合を崩せないという意味なので、基本給以外の一時金や、評価時期、担当範囲を調整できる場合があります。ただし口頭で将来の昇給を約束されても確定条件ではありません。判定時期と基準が書面に残らないなら、提示された現時点の金額で判断します。
回答が曖昧なまま承諾を急かされる場合は、期限までに必要な情報を明確に伝えます。「金額だけでなく等級と次回評価の条件を確認してから判断したい」と言えば、質問の目的が伝わります。それでも説明が得られないこと自体が、入社後の評価運用を考える材料になります。
会話は短く、判断は書面でする
交渉の伝え方は、感謝、確認した役割、希望条件、その根拠の順にすると過度に対立的になりません。「オファーをありがとうございます。担当範囲は設計とチーム横断の改善までと理解しています。同等の役割で他社から得ている条件と比較し、年収を再検討いただける余地はありますか」のように、相手が社内で説明できる情報を渡します。
長く説得しすぎないことも重要です。採用担当者は最終決裁者ではない場合が多く、必要なのは社内へ持ち帰れる短い根拠です。実績を大量に並べるより、今回の役割に直結する二つか三つへ絞ります。質問されたら詳細を説明できる状態にしておけば十分です。
電話で合意した後は、更新された年収、内訳、等級、入社日をオファーレターで確認します。認識の違いがあれば承諾前に直してもらいます。交渉が成功したかどうかは、相手が好意的な返事をした時点ではなく、正式な条件に反映された時点で決まります。
入社後の条件まで比べる
提示年収が上がっても、固定残業代の内訳や賞与の評価期間によって初年度の受取額は変わります。入社月によって初回賞与が対象外になるなら、年収表示と最初の一年の支給額は一致しません。基本給、固定手当、変動賞与、一時金を分け、確定している部分で比較します。
また、交渉で上限近くに入社すると、次の昇給までの距離が短くなるとは限りません。現在の等級内では上がりにくく、昇格が必要になることがあります。初年度の増額と、その後の伸びしろを分けて見れば、目先の金額だけで判断するのを避けられます。
年収交渉で本当に確認したいのは、自分の役割を会社がどう評価しているかです。金額が動いても動かなくても、等級、期待、次の評価条件が具体的になれば、入社後のずれは減ります。説明が一貫している会社かどうかまで含めて、オファーを判断してください。
交渉をしたこと自体で評価が下がると過度に恐れる必要はありませんが、事実と異なる他社条件を使ったり、承諾後に条件を繰り返し変えたりすれば信頼を損ないます。根拠を正確に伝え、回答を受けたら期限内に判断するという基本を守ることが、入社後の関係にもつながります。
まとめ
- 交渉で動くのは応募先の等級レンジの内側だけ。企業タイプ由来の210万円は交渉では埋まらない
- 通る根拠は他社提示・同条件の市場レンジ・職務範囲と等級・現年収の内訳の4つ。平均年収は効かない
- 出すのは内定提示の後。現状の数字と比較対象の数字に、合意する意思を添える