今の会社に残って昇給を待つべきか、動くべきか。この判断に必要なのは気持ちの整理ではなく、待った場合に年収がどの速度で伸びるかという基準線です。
厚生労働省の調査によると、情報通信業の1人平均賃金の改定率は 3.9%(令和7年(2025年)) でした。まずこの数字が何を意味していて、何を意味していないのかを確かめます。
昇給を待つときの基準線は年3.9%
賃金を引き上げた企業の割合だけを見ると、情報通信業は 97.4% と高い水準にあります。ほとんどの会社は、金額の多寡はあれ賃金を上げています。問題は上げるかどうかではなく、その幅です。
改定率と改定額を並べると、次のようになります。
| 指標 | 情報通信業 | 全産業 |
|---|---|---|
| 1人平均賃金の改定率 | 3.9% | 4.4% |
| 1人平均賃金の改定額 | 14,096円/月 | — |
読み方の注意が2つあります。1つは、情報通信業の改定率が全産業計を下回っていることです。IT業界は人手不足で賃金が伸びやすいと語られがちですが、企業が実際に決めた賃金改定という指標で見ると、全産業の平均より高いわけではありません。もう1つは、この改定額が所定内賃金の月額だという点です。時間外手当や賞与は含まれていないので、年収の増加額そのものではありません。
年額に均して考えると規模感がつかめます。改定額を12か月分に伸ばしても、年額では20万円に届きません。賞与が基本給に連動する会社であれば実際の年収増はこれより大きくなりますが、桁が変わるほどではないと考えておくのが安全です。
改定率は「自分の昇給額」ではない
改定率は企業を単位に集計した平均で、個人が受け取る昇給の額ではありません。同じ会社の中でも、等級が上がった人と据え置きの人では上がり方がまったく違います。平均は両者を混ぜた結果なので、自分がどちら側にいるかは平均からは分かりません。
具体的には、この数字は「その企業の常用労働者全体の所定内賃金が、改定の前後でどれだけ変わったか」を示しています。若手が多く入社した年は平均が下がることもあり、個人の昇給とは動く方向が一致しないことすらあります。基準線として使うのは適切ですが、自分の昇給が平均より少ないからといって、それだけで不当な扱いだと判断はできません。
確かめる方法は単純です。前年と今年の給与明細を並べ、所定内賃金にあたる部分だけを比較します。残業代を含んだ総支給額で比べると、忙しかった月と暇だった月の差が昇給に見えてしまうので、区別が必要です。みなし残業が含まれている場合は、その内訳を先に把握してください。計算の手順はみなし残業を実質時給に換算する方法で扱っています。
定期昇給とベースアップは別の仕組み
「昇給がある会社」と一口に言っても、中身は2つに分かれます。定期昇給は、就業規則などで定められた制度に従って毎年一定の時期に賃金が上がることを指します。ベースアップは、賃金表そのものを書き換えて水準全体を引き上げることです。前者は自分が階段を1段上がることで、後者は階段ごと持ち上げることだと考えると違いが見えます。
情報通信業では、定期昇給制度がある企業の割合は 89.6%、実際に定期昇給を行った企業の割合は 86.2% です。一方でベースアップを行った企業は 52.1% にとどまります。制度としての昇給は多数派ですが、水準そのものの引き上げは半数強という構図です。
さらに重要なのは昇給の内容です。定期昇給制度がある情報通信業の企業のうち、昇給の内容が業績評価などによると答えた割合は 85.9% でした。年齢や勤続年数で自動的に上がる仕組みは少数派です。つまり、待っていれば上がるという前提そのものが、いまの制度設計とずれています。在籍年数ではなく、評価と等級が動いたかどうかで金額が決まります。等級制度の読み方は等級・グレード制度と昇格の条件にまとめています。
勤め先の規模で昇給の速度が変わる
改定率は企業規模によって差が出ます。5,000人以上の企業では 5.1%、100〜299人の企業では 3.6% でした。同じ年に同じ経済環境で働いていても、賃金原資の厚みが違えば毎年の伸び方は変わります。
ただしこの数字は産業をまたいだ全体の集計で、IT企業だけを取り出した値ではありません。規模が大きいほど有利だと単純化するのは危険です。実際には、規模より事業の利益率と商流の位置のほうが効きます。同じ人数規模でも、自社サービスの利益から原資を出す会社と、他社から受け取る単価の中から人件費を配分する会社では、上げられる幅がそもそも違います。この構造は一次請けと二次請けで年収が変わる理由で扱っています。
規模の数字を使うときは、自社がどの区分に入るかを確かめたうえで、その区分の平均と自分の実額を比べる程度にとどめます。区分の平均を上回っていれば安心、下回っていれば転職、という短絡はできません。
転職で動く幅と並べて比べる
昇給の側の基準線が引けたので、動いた場合と並べます。dodaエージェント経由で転職が決定した人のうち、年収が増加したのは 60.4% でした。
| 指標 | 金額 |
|---|---|
| 全体の平均変動額 | 9.5万円 |
| 年収が増加した人の平均増加額 | 73.1万円 |
この表は2つの見方を同時に要求します。全体の平均で見れば、転職による年収の変化は小さな額にとどまります。一方で増加した人だけを取り出すと、動く幅は大きくなります。転職は平均して少し上がるイベントではなく、上がる人と上がらない人に割れるイベントです。約4割は増えていないという事実も同じデータから読めます。どちらに割れるかを決める条件は転職で年収が上がる人と上がらない人の違いで整理しています。
適用できないケースも押さえておきます。この数値はエージェントを利用して実際に転職が決定した人の集計なので、応募したが決まらなかった人や、そもそも動かなかった人は含まれていません。自分が転職すれば同じ幅で上がる、という予測には使えません。
何年待つと転職1回分に追いつくか
2つの数字を同じ土俵に載せます。所定内賃金の改定額を年額に均した水準と、年収が増加した人の平均増加額を比べると、後者は前者の4年分を上回ります。賞与への波及を考慮しても、昇給だけで同じ幅に届くまでには数年が必要だという結論は変わりません。
ここから導けるのは「だから転職すべき」ではありません。導けるのは、待つ判断には数年単位の時間という費用がかかっているという事実です。1年様子を見るという判断は、無料の先送りではなく、この差額のおよそ1年分を支払う選択にあたります。それでも待つ理由があるなら妥当な判断ですが、理由を言葉にできないまま待つのは費用だけを払っている状態です。
条件を揃えたレンジで見ると、待って動く幅と、条件そのものを変えて動く幅の違いがはっきりします。実務3〜5年・東京・スキル中位で、企業タイプだけを変えるとこうなります。
| 企業タイプ | 推定レンジ | レンジの図 |
|---|---|---|
| メガベンチャー・外資 | 604〜709万円 | |
| 上場・大手 | 531〜624万円 | |
| 中小の受託・SIer | 459〜539万円 | |
| スタートアップ | 483〜567万円 | |
| SES | 411〜482万円 |
表の上端と下端の差は、毎年の昇給では埋まらない大きさです。この差は事業の利益率と商流という構造から来ているため、社内でどれだけ評価されても構造をまたぐことはできません(企業タイプ別の年収相場)。逆に言えば、企業タイプが今と変わらない転職では、昇給を数年待つのと結果が大差ないこともあります。動くこと自体が答えではなく、どこへ動くかが答えです。
待つほうが合理的になる条件
社内に留まる判断が費用に見合うのは、待つ時間が金額に変換される見通しがある場合です。判断材料は3つあります。
- 次の等級の要件が文書で示されていて、自分が満たしていない項目を具体的に言える
- 直近1年で担当範囲が広がっていて、その実績が評価の対象期間に入る
- 昇格の判定時期と、そこで動く金額のレンジを人事または上長から確認できている
3つとも揃っていれば、昇給の平均値より速く動く可能性があります。逆に、要件が明文化されていない会社では待ち時間が読めません。要件が示されないという事実そのものが、外を見る材料になります。
もう1つ、金額以外の理由で待つ判断もあります。いま関わっている技術や責任範囲が、次に動くときの評価材料になるなら、その経験を取り切ってから動くほうが提示額は上がります。年収の伸びを1年止めても、経歴として成立させたほうが回収は速い場合があります。この場合に大切なのは、いつまでに何を持ち出せる状態にするかを先に決めることです。期限のない「もう少し」は、そのまま数年になります。
動くほうが合理的になる条件
反対に、待つ費用が回収できない状態もあります。次のいずれかに当てはまるなら、昇給を待つ根拠は弱くなります。
- 定期昇給の制度がない、または制度はあるが直近で実施されていない
- 等級の要件が示されず、上長に聞いても評価の基準が具体的に返ってこない
- 担当する仕事の内容が2年以上変わっておらず、次に任される範囲の話も出ていない
- 現年収が、同じ経験年数・勤務地・企業タイプの推定レンジの下端を下回っている
とくに最後の項目は数字で確かめられます。経験年数だけを変えたレンジは次のとおりです。
| 実務経験 | 推定レンジ | レンジの図 |
|---|---|---|
| 未経験 | 340〜399万円 | |
| 1年未満 | 383〜449万円 | |
| 1〜2年 | 425〜499万円 | |
| 3〜5年 | 531〜624万円 | |
| 6〜9年 | 638〜748万円 | |
| 10年以上 | 723〜848万円 |
表は上場・大手/東京/スキル中位という条件で計算した推定値です。自社が別の企業タイプなら水準は上下しますし、レンジの内側にいるかどうかは、担当している責任範囲によっても変わります。表の数字と自分の年収を一度だけ比べて結論を出すのではなく、企業タイプと勤務地を自分の条件に合わせて読み替えてください。経験年数が増えても年収が動かなくなる型は経験年数だけ増えて年収が止まる4つの型で扱っています。
年齢階層別の平均が示す「伸びの終わり方」
昇給を待つ判断には期限があります。国税庁の統計から、情報通信業の平均給与を年齢階層別に並べると、伸び方が一定ではないことが分かります。
| 年齢階層 | 情報通信業の平均給与 |
|---|---|
| 25〜29歳 | 490万円 |
| 30〜34歳 | 553万円 |
| 35〜39歳 | 652万円 |
| 40〜44歳 | 709万円 |
| 45〜49歳 | 750万円 |
20代後半から30代にかけての段差が大きく、40代に入ると1階層あたりの伸びが小さくなります。伸びしろが大きい時期に条件を選び直すほうが、同じ努力でも結果が変わりやすいという読み方ができます。
この表には重要な制約があります。同じ人を追跡した数字ではありません。 各年齢階層にいる別々の人の平均を並べたもので、しかも情報通信業という業種全体の集計です。エンジニア職に限らず営業や管理部門も含まれているため、自分の年収がこの表のどこに当たるかを直接比べる用途には向きません。時期による伸びの傾きを見るための表として使ってください。
昇給が止まっているかを確かめる手順
判断の前に、事実を確定させます。次の順に確認すると、感覚ではなく数字で状態が分かります。
- 直近3年の給与明細から、所定内賃金にあたる金額だけを抜き出して並べる
- 就業規則か賃金規程で、定期昇給の有無と実施時期を確認する
- 等級表と、次の等級に上がる要件が文書で存在するかを確認する
- 直近の評価面談で示された課題が、金額に反映される項目かどうかを上長に確認する
- 同じ経験年数・勤務地・企業タイプの推定レンジと、自分の年収を比べる
1から3が確認できない会社では、待つ判断の根拠が作れません。4は言い方が難しい場面ですが、「次の等級の要件のうち、いま足りていないのはどれですか」と聞く形にすると、評価制度の話として成立します。返ってくる答えが具体的であるほど、待つ価値が高いと判断できます。
昇給額を上げるために社内でできること
社内で動かせる余地は、評価の時期より前にあります。原資は評価サイクルと予算で決まるため、期の途中に個別の交渉で動かせる幅は小さくなります。効くのは、次の等級の要件を先に把握し、その要件を満たした実績を評価時期の前に揃えておくことです。
実績の揃え方には順序があります。まず、担当している仕事のうち、等級要件に対応する部分がどれかを特定します。次に、要件に対して足りない部分を埋める仕事を、評価期間の中で取りにいきます。ここで注意したいのは、忙しさと評価は比例しないことです。要件に含まれない作業をいくら積んでも、金額には反映されません。作業量ではなく、担った判断の範囲が評価の対象になります。
社内での昇給交渉と、転職時の年収交渉は別のゲームです。前者は制度の中で自分の位置を動かす作業、後者は提示された等級レンジの内側で条件を詰める作業になります。使える根拠も出すタイミングも違うため、混同すると噛み合いません。転職時の進め方はエンジニアの年収交渉で通る根拠にまとめています。
よくある誤解を3つ
1つ目は、IT業界だから昇給率が高いはずだという思い込みです。実際には情報通信業の改定率は全産業計を下回っており、業界にいること自体が昇給の速さを保証してはいません。人手不足の指標と、企業が実際に決める賃金改定は別の話です。
2つ目は、昇給がないのは自分の評価が低いからだという解釈です。定期昇給制度がない会社も一定数あり、制度がなければ評価が高くても定期的には上がりません。まず制度の有無を確認しないと、原因の切り分けができません。
3つ目は、転職すれば必ず上がるという期待です。年収が増加した人の割合は6割前後で、残りは増えていません。増加した人の平均増加額だけを見て自分の期待値にすると、判断を誤ります。上がるかどうかは、動いた事実ではなく、動いた先の企業タイプと役割で決まります。
判断を1枚に整理する
最後に、決め方をまとめます。基準線は年 3.9% の改定率で、年額に均せば20万円に届かない伸びです。この速度で構わない、あるいは等級が上がる見通しがあるなら、待つのは妥当な判断です。
そうでない場合、選ぶべきは「転職するかどうか」ではなく「どの構造へ動くか」です。企業タイプが変わらない移動では、昇給を数年待つのと結果が近くなります。動く価値が出るのは、事業の利益率や商流の位置が今より上の構造へ移るときです。まず自分のスキル水準と推定レンジを確かめ、そのうえで応募先の条件を並べてください。
まとめ
- 情報通信業の1人平均賃金の改定率は 3.9% で、全産業計を下回る。年額に均しても20万円に届かない
- 昇給の内容は業績評価によるものが大半で、在籍しているだけでは上がらない設計が多数派
- 転職で年収が増加した人の平均増加額は、昇給の年額換算の4年分を上回る。ただし約4割は増えていない
- 待つ判断が妥当なのは、次の等級の要件と判定時期が具体的に確認できるときに限られる