「SIerからSaaS企業へ」「金融のシステム部門からWeb系へ」のように、職種は開発のまま業種だけを変える転職があります。結論から書くと、業種を変えて動くのは年収の額そのものではなく、年収の決まり方です。同じサーバーサイドの開発でも、その仕事が会社にとって売上原価なのか、投資なのか、コストなのかで値付けの基準が変わります。
まず、よく参照される業種別の統計がどこまで使えるのかを確かめます。
業種別の平均給与を並べる
国税庁の民間給与実態統計調査は、業種別の平均給与を公表しています。1年を通じて勤務した給与所得者が対象で、正社員以外も含みます。
| 業種 | 平均給与 |
|---|---|
| 金融業・保険業 | 702万円 |
| 情報通信業 | 660万円 |
| 製造業 | 568万円 |
| サービス業 | 389万円 |
| 給与所得者全体 | 478万円 |
情報通信業と金融業・保険業の間には42万円の開きがあります。ただし、この表を「業種を移ると年収がその分だけ動く」と読むことはできません。 各業種の数字には、開発職だけでなく営業・事務・企画・管理までが含まれているためです。金融業・保険業の水準が高いことは、その業種のシステム部門が高給であることを意味しません。同じように、サービス業の水準が低いことは、サービス業の事業会社に所属する開発者の提示額が低いことを意味しません。
この表から取り出せるのは、業種ごとに賃金の水準そのものが違うという一点だけです。業種は、そこで生まれる粗利の大きさと人件費の配分方針を通じて、間接的に給与へ効きます。自分がいくらで提示されるかを知りたい場合は、この平均から降りていくのではなく、応募先1社の条件を積み上げるほうが早く着きます。
年齢を揃えても差は残る
業種間の差が年齢構成だけで説明できるなら、同じ年齢階層で比べたときに差は消えるはずです。実際には消えません。
| 年齢 | 金融業・保険業 | 情報通信業 |
|---|---|---|
| 25〜29歳 | 530万円 | 490万円 |
| 30〜34歳 | 623万円 | 553万円 |
どちらの年齢階層でも金融業・保険業が上に出ます。したがって、業種間の差は年齢構成の違いだけでは説明できません。ただし、これで職種構成の影響が消えたわけではないことに注意してください。金融業・保険業には、成果連動の比率が高い職種や、同業種内で給与水準の高い層がまとまって含まれています。年齢を揃えても、比べているのは依然として「業種で働く人全体」です。
この表が使えるのは、業種を移る前に自分の期待値を調整する場面です。移った先の業種の平均が今より低いなら、少なくとも「業種の水準が押し上げてくれる」ことは期待できません。逆に平均が高い業種へ移る場合でも、その高さが自分の職種に由来しているかどうかは、求人票の等級レンジで別途確かめる必要があります。
業種の平均が自分の提示額にならない3つの理由
業種別の統計を提示額の根拠に使えない理由は、次の3つに整理できます。
- 職種構成が違う — 業種の数字は、その業種で働く全職種の合成値です
- 会社の規模と商流が違う — 同じ業種の中に、元請けと下請け、大企業と数十人の会社が同居しています
- 移る先はその業種の平均的な会社ではない — 応募するのは業種ではなく1社です
1つ目が最も影響します。ある業種の平均が高いとき、その高さを作っているのが自分と同じ職種かどうかは統計からは分かりません。開発職の給与が業種平均を上回る業種もあれば、下回る業種もあります。業種平均を根拠にした希望額は、面接官から見ると「なぜその額なのか」が説明できない数字になります。
2つ目は商流の問題です。情報通信業という同じ区分の中に、発注元と直接契約する会社と、二次請け・三次請けの位置で人を出す会社が両方入っています。この差は業種の区分では見えません。詳しくは一次請けと二次請けでエンジニアの年収はなぜ変わるかで扱っています。
3つ目は当たり前に見えて、実務では見落とされます。業種を選んだ時点で提示額が決まるわけではなく、決まるのは応募先を絞ったあと、さらに等級が確定したあとです。業種の話は応募先候補を広げる段階までの材料で、金額の交渉には持ち込めません。
同じ業種の中の差のほうが大きい
実務3〜5年・東京勤務・スキル中位という条件を固定して、企業タイプだけを変えるとこうなります。
| 企業タイプ | 推定レンジ | レンジの図 |
|---|---|---|
| メガベンチャー・外資 | 604〜709万円 | |
| 上場・大手 | 531〜624万円 | |
| 中小の受託・SIer | 459〜539万円 | |
| スタートアップ | 483〜567万円 | |
| SES | 411〜482万円 |
上端の行と下端の行の開きは、先ほど見た業種間の42万円よりはるかに大きくなります。業種をまたぐかどうかより、どの企業タイプへ移るかのほうが金額に効くということです。この構造は事業の利益率と商流の深さから来ているため、業種を変えても商流の位置が変わらなければ、提示額の水準もあまり変わりません(企業タイプ別のエンジニア年収相場)。
この表の読み方には条件があります。ここに出ているのは同一条件でそろえた推定レンジで、実際の提示額は応募先の等級設計に従います。また、行が示すのは中央付近の水準であり、同じ企業タイプの中にも上下があります。未経験に近い状態で企業タイプだけを上げようとしても、この表のとおりには動きません。表を使えるのは、いまと同じ経験年数の範囲で移動先を比べるときです。
SIerからSaaS・自社開発へ移るとき
受託から自社サービスへ移る場合、変わるのは金額より先に評価の対象です。受託では、割り当てられた工数を計画どおりに消化できるかが評価の中心にあります。自社サービスでは、担当したプロダクトの機能がどう使われ、何を改善したかが問われます。同じ実装力でも、説明の仕方を変えないと選考で評価されにくくなります。
提示額は、上がる場合と下がる場合の両方があります。上がりやすいのは、商流の深い位置から発注元に近い位置へ移るときです。下がりやすいのは、現職の年収に固定残業代が厚く含まれていて、移った先が所定内の給与で提示してくるときです。金額の比較は、必ず基本給・固定手当・変動賞与に分けてから行ってください。分け方はみなし残業を実質時給に換算する方法にまとめています。
注意点は、選考で見られる期間です。受託で長く働いた経験は、プロダクト開発の文脈では「要件が決まったものを作る経験」として読まれることがあります。要件そのものを詰めた経験、運用の数字を見て直した経験があるなら、そこを前に出します。SESからの移動についてはSESから自社開発への転職で個別に扱っています。
金融・製造の社内システム部門からWeb系へ移るとき
事業会社の社内システム部門からWeb系の開発会社へ移る場合、現年収が下がる方向に働くことがあります。理由は、事業会社の給与テーブルが業種全体の水準に合わせて作られており、開発職も原則その中に置かれるためです。金融業・保険業のように業種の水準が高い場合、社内システム部門の給与も相対的に高く設定されていることがあります。
この状態から移るときは、現年収を「同じ職種の市場価格」とみなさないほうが安全です。現年収には、業種の水準と勤続年数の積み上げが含まれています。移った先では、その積み上げがいったん外れ、技術的な担当範囲と役割で置き直されます。同額の提示が出るとしても、その根拠は現職とは別のものになります。
具体的には、選考で説明できる技術的な実績があるかどうかが分かれ目になります。ベンダー管理と要件定義だけを長く担当していた場合、開発職としての評価軸に載る材料が少なくなります。逆に、内製化の中で設計と実装まで持っていた場合は、規模や制約を含めて説明できるため評価に載ります。社内システム部門側の相場観は社内SEの年収で扱っています。
Web系から金融・製造の内製部門へ移るとき
逆方向、つまりWeb系から事業会社の内製部門へ移る場合は、提示額が現職と同水準か、やや上に出ることがあります。事業会社が内製化のために採用するとき、既存の給与テーブルの上のほうか、専門職向けの別テーブルを用意していることがあるためです。ただしこれは会社ごとの制度の話で、業種で決まるものではありません。
確認すべきは、その内製部門が既存の給与テーブルの中にあるのか、外にあるのかです。中にある場合、入社時の提示は良くても、その後の昇給は業種全体の改定率に従います。製造業と情報通信業の水準差については組み込み・制御系エンジニアの年収相場でも触れています。外にある場合は、評価の運用が始まったばかりで基準が固まっていないことがあり、昇格の条件を先に聞いておく必要があります。
もう一点、開発の裁量がどこまであるかを確かめてください。内製部門と呼ばれていても、実態は要件をまとめてベンダーへ渡す役割であることがあります。この場合、数年後に転職市場へ戻ったときの評価は、入社時より下がる方向に動きます。年収の増減だけでなく、次の移動のときに何を書けるかまで含めて判断するのが安全です。
業種をまたぐ選考で提示額を決める5つの材料
業種が変わっても、提示額を決める材料そのものは変わりません。確認する順に並べます。
| 材料 | 何を確かめるか |
|---|---|
| 等級とレンジ | 提示された役割が社内の何等級で、その等級の上限がいくらか |
| 内訳 | 基本給・固定残業・賞与の比率と、賞与の算定期間 |
| 評価の運用 | 次の評価がいつで、何を満たすと等級が上がるか |
| 商流と役割 | 発注元に近いか、どの範囲まで意思決定を持つか |
| 移動後の伸び | その等級から上がる人が実際にいるか |
この表は、業種をまたぐ場合に特に効きます。同じ業種内の転職なら、現職の感覚で内訳の見当がつきますが、業種が変わると賞与の設計や手当の名前まで変わるため、額面だけでは比較できなくなるからです。
一方で、この表がそのまま使えないケースもあります。設立から日が浅く等級制度が整っていない会社では、上の3行が確認できません。その場合は等級の代わりに、いま在籍している同水準の人がどんな範囲を持っているかを聞き、そこから逆算します。制度がないこと自体は悪い条件とは限りませんが、入社後の昇給が個別交渉になる点は先に理解しておく必要があります。
移る前に確認する手順
業種をまたぐ判断は、次の順に進めると迷いが減ります。
- 現年収を基本給・固定残業・賞与に分解する
- 移動先の候補を業種ではなく企業タイプで並べ直す
- 候補ごとに求人票の等級レンジと想定役割を書き出す
- 自分の実績のうち、業種に依存しない部分を先に整理する
- 業種固有の知識に依存する実績を、汎用的な言葉に置き換える
- 提示が出たら、額面ではなく内訳と等級で比較する
4番と5番が、業種をまたぐときに特有の作業です。業務知識に寄った実績は、そのままでは移動先で読まれません。たとえば勘定系や生産管理の経験は、業務の名前ではなく、扱ったデータ量、求められた整合性の水準、障害時の制約といった形に翻訳すると、業種の外でも評価の対象になります。書き分けの型は職務経歴書で提示年収が変わる理由で扱っています。
スキルの水準そのものが提示額をどれだけ動かすかは、条件を固定すると見えます。実務3〜5年・東京・上場企業という同じ枠でも、下位と上位ではこれだけ違います。
- スキル下位(スコア30):491〜576万円
- スキル上位(スコア85):602〜707万円
業種をまたぐ選考では、ドメイン知識で説明できる部分が減るぶん、この技術面の評価が占める比重が上がります。移動を考える段階で自分がどのあたりにいるかを把握しておくと、候補の絞り込みが早くなります。
よくある3つの失敗
1つ目は、業種の平均給与を希望年収の根拠にすることです。面接で業種平均を持ち出すと、自分の条件に合っていない数字を使っていることが伝わります。使うなら、経験年数・企業タイプ・勤務地・役割をそろえたレンジにしてください。転職全体の実績としては、増加した人の平均増加額が 73.1万円 である一方、全体の平均変動額は 9.5万円 にとどまります。上がる人と上がらない人に割れるイベントであることは、業種をまたぐ場合も変わりません。
2つ目は、現年収を「自分の市場価格」だと思い込むことです。特に業種の水準が高い会社から移る場合、現年収には業種と勤続の要素が乗っています。移動先が同じ額を出せないとき、それは評価が低いのではなく、値付けの基準が違うだけということがあります。判断が必要なのは、下がった金額を回復できる見込みがその会社にあるかどうかです。
3つ目は、入社後の伸びを確認しないまま初年度の金額で決めることです。業種をまたぐ移動は、入社時にいったん評価が置き直されるため、初年度の提示が低めに出ることがあります。そこから2年目以降にどう上がるのかを聞かずに決めると、下がったまま固定されることがあります。上がる人と上がらない人の分かれ目は転職で年収が上がる人と上がらない人の違いにまとめています。
まとめ
- 業種を変えて動くのは年収の額ではなく、年収の決まり方。業種別の平均給与は職種構成を含んだ合成値で、提示額の根拠にはならない
- 業種間の差より、企業タイプによる差のほうが大きい。移動先は業種ではなく、受託か自社か・商流のどこかで並べ直す
- 業種固有の実績は、業務の名前ではなくデータ量・整合性の水準・制約に翻訳しておく。ここが業種をまたぐ選考で最も差がつく
- 提示は額面ではなく、等級・内訳・次の評価条件の3点で比較する